富士宮

ちいさなお尻

 初秋。まだ湿り気の残る空気にのって、市内のあちらこちらからお囃子の音が聞こえる。湯船につかり目を閉じる。かすかに響くその旋律に、やがて深まる秋を感じ、色づく山々や大きく熟れた柿の実に思いをめぐらせる。ふと目をやると、傍らで髪を洗う娘の泡だらけのちいさなお尻が、太鼓の音に合わせて揺れている。岳麓に生まれたDNAが、秋祭りの状景と共に娘のアイデンティティーを構築していくのだろう。

 私の大きなお尻はもはや揺れるべくもないが、娘同様に、私の自我もまたこの地に固有の文化や風土によって形成されたものだ。飲んで帰った夜、蛇口をひねり一杯の水を飲む。世界中の酔っ払いがうらやむこの酔い覚ましは、数十年前に降った雨雪が、富士山の土壌を濾過され湧き出したものだという。就寝中の妻を起こさぬよう最大限の注意を払い、身体の芯に沁み込む水のうまさに、永い歳月や先人たちの営みの歴史を想う。

 梅雨の晴れ間、矢のように流れる厚い雲の切れ間から突然姿をあらわす山肌。強い光を帯び、一本の木、一個の岩まで見えるのではないかと思わせる富士の迫力に目を奪われる。誰もが経験する些細な日常や風景が積み重なり、やがて地域に生きる私たちを創りだす。

 例えば私たちは、グローバルスタンダードで日本の象徴である富士山の麓に生まれ、そして生きることができる。誕生という奇跡のような確率と相俟って、この偶然は、私たちを特別な存在であると改めて認識させる。地球上全ての人々が平等に持つこの確率と特異性は、その土地に生きる人々の幸せの根源であり、大きな誇りであろう。

 娘のお尻が物語るように、特に私たち日本人のアイデンティティーには、生まれた、又は生きている地域の特性が強く影響する。それ故、「幸せ」の実現を目的とした社会的な活動は、地域に対する愛着、誇り、そして地域それ自体と乖離して成立するものではないのではないかと考える。

 バブル崩壊後、日本が「効率」を最優先に規制緩和を推し進め、そして実現した社会構造の変革は、「地域」と「個」の結び付きを軽んじた結果、日本人の本当の「幸せ」を実現するものではなかったのではないかと思われてならない。

 米国で新自由主義が崩壊し、世界中で新たなシステムが様々な分野で模索されている。日本の進むべき方向の中で、重要なポイントの一つであると考えられるのが、私たち地域の零細企業が担う役割である。地域に根ざす零細企業は、文字通りここで生まれ、ここに生きる私たちのアイデンティティーの結晶である。効率化の可否で、スクラップアンドビルドを繰り返す大企業とは違い、地域に生きる零細企業は決して地域を離れることはない。従って、それらの持続的な経営は、「地域」の特性を軸に「個」の「誇り」と「幸せ」を実現するものであると言えよう。

 中小企業憲章などのシステムによるサポートの必要性と、中小零細企業と地域を核に成長熟成モデルを描いたビジョン、そして何よりも私たち田舎者零細企業がアイデンティティーをフルに活かした元気一杯の活動を行う事が、本当に日本らしい「幸せ」を実現するものだと強く思う。

 昨年の秋、かわいいお尻に鑑みた自らのルーツ。未曾有の出来事ばかりが起こり、暗いムードの中、冬を過ごした。秋祭りのお囃子の稽古が始まるまでまだしばらくあるが、今年も心地よい季節を迎えられるよう、そして今年も娘が一緒にお風呂に入ってくれるように祈りつつ、岳麓の、ここにしか存在し得ない会社を創っていくために、もう一度自社のアイデンティティーを見直してみようと思う。

by 阿久澤太郎 (株式会社東海製蝋 代表取締役)


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