富士宮

平成22年度 富士宮中小企業大学 第五講

平成22年度 富士宮中小企業大学 第五講

開講日    10月26日

講師      静岡大学 人文学部教授 大野旭氏

講義      モンゴルと中央アジアからみたイ・サンの世界

 はじめに先生は、「イ・サンはよく知らないので、モンゴルと朝鮮半島の歴史から辿っていきましょう」とモンゴルの歴史から講義に入っていった。

 モンゴルからの日本・朝鮮の呼び名は、それぞれナラン・ウルス(日いずる国)ソロンゴス(虹の国)と呼ばれている。チンギス・ハーン家は森林地域である満州での「森の民」から、モンゴル高原における「草原の民」へ移動していったと考えられる。満州では朝鮮民族との交流があったのではないだろうか。

 モンゴルの高麗への侵攻は、チンギス・ハーンから二代目まで続いたが、フビライがハーンになると高麗の元宗との親交が始まる。元宗の息子忠烈王は、フビライ・ハーンの娘を娶り、クリガン(婿殿)になる。

クリガンとはモンゴルにおける爵位である。元朝滅亡まで、高麗王朝とモンゴル帝室との通婚関係は続き、計8人のモンゴル公主が高麗に嫁いだ。元の二度にわたる日本への侵攻(元寇)も、高麗王家の役割は大きかった。

 モンゴルで作られた世界最早の世界地図、「混一彊理歴代国都之図」が日本に二つ残っている。ともにアフリカが描かれており、大陸内に湖と二本の川が描かれている。

朝鮮で書き直されているが、地名表記はすべてモンゴルのものである。世界地図作成の条件として、モンゴルの遊牧民には、中国からアラブまで豊富な地理学的知識があり、モンゴル帝国期の駅伝制度(町から町への移動距離)の発達、イラン(アゼルバイジャン)や北京へ天文台設置し、アラブの地理学や天文学を集大成させるなど条件が揃っていた。

1368年元宗が崩落し、朝鮮においても1392年高麗が滅亡し、李成桂が朝鮮王朝を建立し時代はイ・サンの李朝へ突入した。

報告:河原崎信幸 (シンコーラミ工業株式会社 代表取締役)


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