富士宮

2008.11.22全県フォーラム 第4分科会その2

<信幸> 隣にいる長男が中学の頃に、「うちの会社へ入りたい」という。小学生だった次男は、「ぼくちゃんも会社が欲しいよ」という。その後も長男は後継者になる考えを変えませんでした。安易に決めていいのかな、と思いましたが、後継者として課題をいくつか課しました。

 たとえば「大学を卒業してこい」と。社員にはすでに大学卒が居りましたから、もしくは全く別の道で自らの夢を実現させ成し遂げるとか、やはり社長は常に社員を凌駕する存在でなくてはならないと思います。

 それから中小企業で「資本と経営の分離」は基本的に無理があると思っています。私の会社を含め、多くの中小企業は社長の個人資産・信用を担保に金融機関から借入れて経営しています。他人を後継者にした場合、融資を受け入れようとする度に、私の所に保証の印を取りに来なければならず、自由な経営はできませんよね。そういうことを考えると、継ぐ方も継がせる方も不幸だなと思うんです。ですから私は他人を後継者にと考えたことはありませんでした。

 次男に関しては柔軟に考えていました。大学卒業後、黒松先生のところで修行して税理士を目指してもいいなと。

 事務所にお世話になって「学校で学んだことが通用しないから専門学校へ行きたい」と「それなら黒松先生に相談しなさい」と言うと、黒松が「じゃあ毎朝7時に来なさい」と。毎朝7時に、土曜日は半日、先生と一対一での勉強。私もよく頑張るな~と思っていました。残念なことに次男の選択肢を奪ってしまったのは私でした。工場が火災に遭い、保険金の交渉。保険会社と鑑定人を相手に、在庫数量は?機械の償却をどう見るのか?税務署よりうるさいくらい。黒松にお願いして「直哉を戻してくれ」と、二人でタッグを組んで、それでも支給決定まで4ヶ月掛かりました。

<黒松> じゃア。哲哉と直哉に聞きたいと思います。

 親は哲哉と直哉に、特に哲哉には自分から「入りたい」と言ったと言っているけど、実際にそうなの?

 それと、哲哉にも直哉にも自分が「入りたい」と思ったのはいつだったのか。そして小さい時にそんな話はした?兄弟間で。そこら辺もちょっと教えてもらいたい。

<哲哉> 実際私は「父の会社を継ぎたい」ということを今社長が言ったとおり中学の時に言いました。それまで小学校時代はサッカーに一生懸命やって、小中高とサッカー一筋で頑張ってました。小学校時代、「キャプテン翼」とか、日本のJリーグがプロになったとか、そういったせいでブラジルへ行くのが小学校時代の夢でした。ブラジルへ行ってプロになって日本をワールドカップで優勝させる。ありがちな夢ですけどね。それを社長、父に伝えていました。その時父は「そうか頑張れ」どっかで「そんなんやれるわけない」と思ったでしょうね。中学時代サッカー部の指導者があまりサッカー経験の無い人で、ところがメンバーが良くてそこそこの成績を残せた。ただチームとしての限界を感じまして。中学生になり将来のことを考えたときに「親父の跡を継ぎたい」と伝えました。

 何故かというと、普段生活を一緒にしていて父の背中を見て、父の生活を見て、他人よりもいい生活を送りたい、金持ちになりたいと思ったのが正直なところでした。そんな単純なことで「この会社を継いで行こう。そうすれば親父みたいな生活ができる」と。そこから先ず高校受験にあたって「この高校行けるものなら行ってみろ」と最初の課題を出され、そこで失敗。

 で大学に入って「四年で卒業しろ」大学時代アルバイトに明け暮れて、ろくに学校へ行かなかったんですが何とか四年で卒業。大学では「勉強はしなくてもいい、人脈を作って来い」という事で、名古屋の大学でしたが、いろんな人脈を作ってきました。それから卒業後アメリカへ行きました。社長が海外へ行ったときに英語で苦労したということがあって、社長の希望であり、私の希望でもあって、アメリカへ行って現在に至っています。

 私が最初に「会社を継ぎたい」と言ったときに、社長は「本当にいいのかな?」みたいに言ってましたが、裏情報によると「ハイ、俺の勝ち」って親父は言っていたようです。親から息子に「社長を継いでくれ」と言うんじゃなくて、息子のほうから「継ぎたい」と言わせた「俺の勝ち」と、そのようでした。以上。

<黒松> 直哉は?

<直哉> 今社長に言われてですね。たしかに小学校のときに「会社が一つ欲しい」といいました。言われて思い出しました。「本格的に会社に入りたい」というよりも「入るだろうな」と思ったのが高校受験のときでしたね。別に会社のことは全然知らなかったですし、長男、兄がいるという状況でしたので、「会社に入る必要があるのかな?」。会社自体にあまり興味がなかった、というような状態でした。そんななか高校受験で、私はどこに行ったらよいか?と社長に相談したところ、「北高の商業科に行け」と。商業科にいって「簿記の勉強とか、後々のためにもなる」というふうなことを言われました。

 で、たぶんそのころに会社の経理みたいな話も耳にして。「簿記ってどういうものなの?」という話をしているうちに、会社の経理をやるものだという話を聞いて、「あー なるほど」と思いながら、そのまま富士宮北高に進みまして大学の経営学部に入りまして、卒業して黒松会計事務所に入りまして、先生のもとで勉強していた。

 たぶんここまでの道筋なんですけども、高校受験のときに社長がポロっと言った一言で、どんどんレールに乗っかってそのまま突き進んでいって、たぶん今の経理の関係の道に進んでいったのではないかというふうに思います。さほど会社に入ろうという意識はその当時はなかったですね。黒松先生のところで仕事させていただいて、いろんな勉強をさせてもらいました。「朝7時に来い」。最初はわけも分らず行くような状態でした。朝7時に行くんですけど、先生は1時間くらい前から事務所にいるんですよね。帰りも必ず一番最後に帰るという姿を目の前で見せていただきました。そういった経営者の姿勢ですね。そういったことを見ることによって、だんだん会社の経営というよりも、上でやっていくことが楽しいというのも変なんですが、凄いことだなと。自分も一生懸命仕事をやって行きたい、ということを見て学んでいきまして、最終的にシンコーラミに火事で戻ったんですが、「一生懸命にやってゆこう」と。会社で一生懸命頑張って行こうということを、黒松先生の下で勉強して、シンコーラミに入って、自分の役割を考えるようになってから感じたと思います。

<黒松> なんか親の手の平で遊ばれているような感じだね。二人の役割分担というのはどうなってます?。

<哲哉> 営業的な人間と経理的な人間、両極端です。社長の狙いどおりなのかどうか分らないですけども、仕事に関してもふだんの生活に関しても、二人は全く両極端な人生を歩んできました。社内においても私は営業、人事採用など、彼は内部的な管理の部分、経理の部分という形で分かれています。

<黒松> それは固定して考えて良いのかな?それともちょっとオーバーラップするようになってくる。そういうところもあるのかな?

<哲哉> もとから私はこのままでしました。今もあまり変わっていません。弟が会社に入って今5・6年ですけど、私から見ても弟は大分変わりました。富士宮支部の皆さんは分ると思いますけど、ボソボソと喋って何言っているのか分らない、というのが弟直哉でした。ところがここのところ、お客さんとも話をするようになってだいぶ変わりました。

 これは本人も気づいています。話し方も変わり、声も大きくなり、こういう状況になってくると、彼が対外的なことをやっていくということも勿論、いま現在もそういったことも多少やっておりますし、黒松先生が言ったようにオーバーラップしてくるというようなことも十二分にあると思います。

<黒松> ひとつの会社に親とそれから兄と弟というのが、なかなか難しいというのもあるし、うーんと上手くやっているところもね、あるんじゃないかと思いますので、たぶん異質の部分があるっというのが一つのポイントなのかも分らない。話は変わるんですけども、バトンタッチのタイミングというのもよくいう考えて親は良い状態で渡したいということがあると思うんですよね。それがやっぱり親の立場から考えると、「良い時に渡してあげたいな」ということをよく耳にするんですよね。いろんな方から。跡を継ぐ後継者の方はあまりそういうことは考えないのかもわかんないですけど、親として社長はそういう意見についてどういうふうに考えますか?。

<信幸> 会社の良い状態ってどの状態を言うのかな?と思うんですよね。中小企業の場合に、これが良い状態、って思うことってあります?。長く続いたって1年半かそこら。うちは事件・事故が多すぎますけど、それにしても長く経営に携わると、良い状態ってわからなくなりますよね。ただ後継者が会社へ入った時点で一つクリアですよね。あとはどんなタイミングで委譲していくのか。これはやっぱり演出だと思いますね。私は工場火災をきっかけに、持ち株ゼロになりました。罹災金額4億2千万円で株の評価が出ないときに、長男80%次男20%の比率で全株式を移してしまったんです。株主総会の決議でいつでも解任される代表取締役なんです。ですからこっちから先に「還暦で辞めるぞ」と。そうなると私の還暦までに、学ぶこと・やるべきことが明確になってくるんですよ。「うちの社長いつ辞めるんだろう」って思っていたら覚悟が出来ませんものね。周りからは「早すぎる、そんなこと言っていいのか」と言われますが、2010年の3月21日に社員集めてパーティーでもやろうと思います。先ほど話した北山工業団地進出、私の夢だったんです。夢を果たして社長を辞める、これも演出なんです。

<黒松> あとは工業団地移転の話、要するに経営課題の問題については後で話すんですけども、バトンタッチの問題として子供としてはどう思う?。哲哉と直哉は「どういう状態で継がせてもらいたいな」というのはあります?。

<哲哉> 本当の希望でいえばこんなに借金がない状態で継ぐのが勿論一番いいです。ただ、親父が決めた事ですし、今回の新工場に関しては私も全面的に賛成です。工場集約が私の目標でした。3工場に離れているための経費、そして一番の問題は人の管理。ここ数年で50人規模の会社が7・80人派遣も含めると90人近い、それが3工場に分かれていては管理が行き届きません。工場集約がこんなに早くできるとは私自身も驚きです。この借金に関しては仕方ないなと。シンコーラミは小ロット・多品種で、他では出来ない特殊な加工を強みとして、新しいことに挑戦してきた会社です。設備投資に関する借り入れはやむを得ないと思っています。私が「常務」という肩書きを言い渡されたとき反対でした、実力も無いのにと。でも社長から採用から人事まで任されたとき、思い切った人事改革をさせて貰って、今ではあそこで僕を常務にした社長の判断は、間違えでは無かったんだなと思います。

<黒松> じゃア直哉はどう?

<直哉>  借金の話が出たんで。私が黒松会計事務所に入って会社の試算表をみた日、社長と母親に「どうなってんだ」ということを夜中まで話をしたことがありました。私子供が二人いて来年5月また一人生まれます。そんな状況で「自分が親の立場になったら」と考えると良い状態で継がせたと思います。

 自分は今、経理以外に生産管理・技術管理、時には製造のラインに入ることもあります。そんな立場で会社を見て「中小企業の良い状態って何だろう」と、社長と同じ考えです。私は三代目の補佐役として、とにかく今ある状況の中で他人の2倍3倍頑張る。社長から会社へ入れと言われたとき、兄と話し合いました。初め兄は猛反対「入ってくるな。何かあって共倒れしたらどうするんだ」と。後継者の補佐役の立場で「必要ないと思われたくない」と考え、今必死に頑張っています。正直言って社長と常務は結構馬が合うんですよね。私のほうが社長とよく喧嘩します。社長と常務は感覚的な話をするんですが、私は100%伝えて、100%受け取らないと嫌なんです。しつっこいと思われていると分かっていますが、そういうコミュニケーションを取りながら経営交代をやって行きたいと思います。メインの宮信さん以外の銀行は私が担当していますが、最近宮信さんも社長を通さず、直接やり取りさせてもらっています。継ぐ立場としては今の状況を精一杯頑張る。その上言われていないこともドンドン突き進んでやっていこうと思っています。

<黒松> 今の前問との絡みなんですけど、経営課題。今社運をかけて北山工業団地へ移転して新社屋つくっていくと言いましたけど、それに関して後継者の方との意思統一をどういうふうに図っていったのか?ということを社長の方に聞いてみたいなと思いますけど。

<信幸> 意思はもう家の中で、例えば異業種団地の会長をやっていて、そこにいた60社位のメンバーが10社位に減って、と。彼らはずっと見ているから、どっかで覚悟していたでしょうし、建設に関しても2千何百坪になったのも長男のせいなんです。最初第1期工事で600坪位の建物に新しいマシンを入れると決めたんです。そしたら長男が「社長、せっかく1ケ所に集約するのに、同じ敷地で分社するのか」と言われて、「あっそうか」てなことで最終的に当初の3倍以上に。次男は投資額を聞いて「こんなに借金してどうするんだ」と言ってましたけど、社長と常務が決めたんだからしょうがないと。借りるのは私で、返すのは息子たち。

<黒松> 今の意見聞いてどう思います?。常務の方はあれだろな?

<哲哉> そのままです。私も様々な会社を訪問して、様々な工場を見ているなかで、「こいう設備が欲しいな」と思ってきました。火事から突貫工事での建て直しゆえ出来なかった、防塵・防虫管理、陰圧・陽圧の管理、物流等を求めたら現在の計画になってしまいました。私の責任です。何も言えません。

<黒松> 直哉どう?

<直哉> 今、建物の話になったんですけど、私は土地の時点で反対というか、私が出張から帰ってきてデスクの上を見て、冊子がおいてあるんですね。「何だろう?」と開いてみたら、「北山工業団地」。「あー話があったのかな?」。あとから社長に「これ、何?」と聞いたら、「オー買ったから!」と。4800坪もの土地の売買を簡単に決めちゃって。経理の立場としては「ウーン」と考えちゃいましたが、会社の勢い・生産状況を考えるとやむを得ないなと。建物の件も、社長が600坪の図面を見せてくれたとき、常務に別室へ呼ばれまして、建物の構想を聞かされて「どう思う?」「あ~良いね」と。常務は私を丸め込むのが上手いんですよ。そしたら社長と常務の間でトントン拍子に話が進んで3倍を越えてしまいました。借金はとんでもない額になるんですが、あくまでも経営者の決断です。

<黒松> それに関してね、全社一丸になるような意思統一というのは社長のなかでありました?今、取締役に関する意思統一は、なんとなく事後承諾的なところもあって、引きずられてきた雰囲気もあるし、また個人そういう思いが強く引き継がれてきたな、と思うんですけどね、会社としての意思統一というのはどうでした?

<信幸> 部長以上には、と言っても役員を含めて7人ですが、ここでは逐一報告して意志の統一を図りました。社員たちには8月最終日曜日に、暑気払いを兼ねて報告しました。入社まもない社員も多いので、プロジェクターを使って私から会社の歴史そして今後の構想を、設計士から工場の構想図・完成予想図を、次男からISOの進行状況を。先ほどからの話で、私が実務的な仕事はほとんど行っていないことがお分かりだと思いますが、社員たちとの日常の接点は息子たちが主となっていますので、若い者を中心とした一連の流れが、この工業団地進出にある、と社員たちは納得したのではないのでしょうか。

<黒松> そうすると今度の工業団地の移転というのが、ある意味、実質的な事業承継というふうに考えると、それに対する決意というのは哲哉、直哉はどういうふうに考える?

<哲哉> 工場のレイアウトも多分に私の考え方を入れさせていただきましたし、現在人事採用も全て私がやっています。工場が分かれている事もあって、社長が知らない社員もいると思います。社員のことは私が一番よく知っています。話もよくしますし、新しい工場に向けてというところでは、社長も言われたように、ISOを取り入れることによって歩留まり・ロス率・稼働率等、そういうものを数字でみんなに分らせる。社員に個人個人で、そしてチーム毎に、自ら管理するよう教育しています。新しい工場で会社を革新していく、それが事業継承に繋がっていくのかなと。ISOのことに関しては直哉に。

<直哉> そうですね、一年ほど前に会社において一番の問題点は何だろうと考えたとき、50人規模から派遣も含めて90人近くまで膨張していく中で、管理が追いつかなくなっていることに注目しました。そんな中で私が「ISOをやりたい」と言い始め、キックオフしたのが1月、3月に土地を買って新工場という話になったんですが、私はISOを通じて会社の組織を強くしていこうと。今社内では3交代のシフト毎の会議、部門ごとの会議、工場ごとの会議、毎週行われる会議に出席して「ISOと北山工場この2つに向かって頑張ろう」と。それが事業継承に繋がっていくと思っています。

<黒松> あと一つ事業継承に関して聞きたいんだけども、親はどちらかというと「自分の実力で仕事をとってやろう」という意気込みでいろんなことをやってきたと思うし、そういう迫力をもってきたと思う。2人の考え方聞いても、なんとなく見えるんだけど、そういうものをなんとかこれを機会に、株はもう持っているから、株は承継してるんだけども財産的にはね、事業をとってやろう、というふうな意識というのはある?二人のなかに。

<哲哉> もちろんあります。富士宮支部の皆さんよくご存知でしょうけど、うちの社長すごく異才で異色を放っていると思います。息子から見てもそう思います。私から見た社長はどっかでワンマンなところもあり、社長が「白いものを黒」と言ったら、みんな黒と認めざるを得なくなる話術を持っているんです。でも私もそういう面を持っています。さっき直哉も言ったように、私口が上手いんですよね。社長と話していても、時々やりずらそうにしていることがあります。周りから見ればマダマダ甘いといわれますけど、いずれ勝てると心に秘めています。

<直哉> 私は経理部長として入社して、お金だけを見ていれば良いという状況だったんですが、それだけでは、物足りなくなってきました。それで現場に、生産方法に、お客との交渉に、ドンドン顔を出して物言いする、そうやって会社を良い方向にもって行きたいと思っています。事務所では、限られた台数のパソコンの奪い合いだったのを個々に持たせてオンライン化、それを現場まで広げて生産管理へ、そのためにソフトの更新、そんな流れがISOへ。私が新しいことに進んでチャレンジしていくことが、事業継承に繋がっていくと思うんです。本業の経理では、銀行は窓口を任せてもらっていましたが、メインバンクが来ると社長が対応して私は滅多に呼んでもらえない、というより自分から入ってくるのを社長は待っていたんだと思います。そのへんが分かって勝手に連絡して現況を確認したり、でも報告すればいいんですよね。そうやって社長の仕事を奪いに行けば社長はドンドン渡してくれるんですよね。常務とはそういうことを結構話し合っているんです。お互いの共通意識の中で役割分担をして、新しいことを始めることで継承して行こうと思っています。

<黒松> ありがとうございます。ますます親の路線の方に行っているような感じがしますけども。なるべく取るような形でね進んでいってください。それとあと富士宮同友会というのは親子会員が8組位あるんでかね。もちろん河原崎家も3人入っています。他にも、もう辞めたんだけども「子供を頼むよ」という形でいわれているところもありますけども、これからちょっと切り口かえて、同友会というものをクローズアップしながらデスカッションを進めて行きたいと思います。よろしくお願いします。
同友会のかかわりというのは社長どういうふうなことでしょうか?

<信幸> 私、同友会に育てられた人間です。社会保険労務士になってすぐに同友会へ入りました。ですから30歳で同友会に入りまして、同友会歴28年です。その頃から本当に良い先輩に出会いました。さっき私、社員との慰安旅行を、大きな負債を抱えながら続けたと言いましたね。これは社員との約束を守れない会社には、優秀な社員は育たないと、実体験で教えてくれた先輩がいました。一級設計士ですが、文系の大学を卒業後、営業関係の仕事に就いて、与えられた目標をクリアしていく中、社長が「年内この成績を続けたら、専用のセダンを与える」と。頑張ってクリアし、翌年社長に言うと「そんなこと言ったか?」と、結局退職して工業大学へ行きなおして一級建築士に。その話を聞いて私は社員に絶対嘘を吐かないぞと。意地もあって、4年に台湾、6年に北海道、8年に韓国、10年に九州。私は社員と出来ない約束はするな、と教わりました。

 シンコーラミが創立3年目で黒字になったとき、熱海でのフォーラムで心配してくれていた先輩が「河原崎君、会社はどうだね」「やっと黒字になりました」すると顔を背けて、でもその先輩の目から涙が流れていました。またその方には「中小企業は丸太の上で戦え」と、「広場で戦えば数の大きいほうが勝つに決まっている」と。

 憲章の父と云われる先輩には、社会との関わりにおいて経営者は、どう生きどう行動すべきか。

 先輩ですが、戦友と呼ばさせて頂いているいる方とは「お二人は本当は仲が悪いんですね」と言われるくらい、顔をあわせると口角泡を飛ばして徹底的に議論。
ある先輩には視点の置き方、コップを裏から見ることを、その方は「会員は辞書の1ページ」を実践し、見事に活用しております。

 そして今日のコーディネーターの黒松、私の1年後輩で出身高校も同じです。顧問税理士ですが、普段から私が熱くなった時のなだめ役。ただ冷静そうに見えますが、実は私と同じ熱くなる時があり、二人して熱くなった時は手が付けられません。

 こんな多くの仲間たちに私は育てられて、今の私があるんだとつくづく思います。

その3へ続く


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