2008.11.22全県フォーラム 第4分科会その1
2008年11月22日、沼津支部の幹事で開催された静岡県中小企業家同友会、全県営々フォーラムの第四分科会に、富士宮支部会員、シンコーラミ工業株式会社の代表取締役 河原崎信幸氏、常務取締役 河原崎哲哉氏、取締役経理部長の河原崎直哉氏の三氏が登壇しました。
「シンコーラミとしても、同友会会員としても、ひとつの集大成」と語る河原崎信幸社長。他支部でもなかなか例を見ない親子会員、そして事業を渡す立場、受け取る立場の兄弟のエピソード。ドラマよりドラマティックな、それでいてリアルな中小企業の足跡、今、未来について、富士宮支部の黒松健太郎氏のコーディネートのもと、講演いただきました。
1時間以上にわたる長時間の講演の採録につき、長文となっておりますのでその1~4に分けております。また、それぞれ自体も大変長いコンテンツとなっておりますが、内容を割愛せず、同友会会員内外に伝えたいと講演者の意向から全文掲載しております。(富士宮支部広報担当 田邉元裕 注釈記す)
2008.11.22全県フォーラム 第4分科会
<黒松> 皆さんこんにちわ 第4分科会、事業承継の部会です。「親子で語る企業、同友会」ということで進めさせていただきたいと思います。
紹介いただきました富士宮支部の黒松という者です。よろしくお願いします。河原崎社長とは23年前になりますか、青懇全国大会というのがありますよね。ちょうど東京湾クルーズで大会をやったことがあるんです。その時に「継ぐ立場」ということで河原崎社長が報告者で私が座長でやりました。その時悪い先輩がいまして、横浜の天ぷら屋さんの2階で散々酒を飲まされまして、分科会をやったということを思い出しました。
それから23年たって社長の子供さんとこういう形でパネルデスカッションがやれるということは隔世の感じがしますけども、今日は楽しく、なるべくえぐる意見を聴きたいと思いますので、よろしくお願いします。
それからバズのテーマなんですけども、パネルデスカッションを聞きながらよく考えといてください。ちょっと欲張ったテーマなんですけども、「事業承継とは何か? あなたはどう考えていますか?」ということと、「継ぐ立場、継がせる立場をふまえて夫々の立場に立って、自社の経営課題との関わりのなかで後継者問題を戦略的に考えていますか?」「事業承継と同友会の承継とはどのような関係があると考えていますか?」「同友会生き方とはどのようなことだと思いますか?」何かわけのわからないテーマになっておりますが、複雑に絡み合いながら展開していけたらナ、と思いますのでよろしくお願いします。
先ず最初に河原崎社長にシンコーラミ工業の会社の生い立ち、そして現況について報告してもらいたいと思いますのでよろしくお願いします。
<河原崎信幸> 皆さんこんにちわ。富士宮支部の河原崎です。シンコーラミの社長です。
隣が私の長男で現在常務取締役です。「河原崎哲哉です」。一番向こうが次男で取締役経理部長です。「河原崎直哉です」。
今日の記念講演も、後継者という立場話をされましたが、私も二代目です。
父が戦争から帰ってから、夫婦とも実家が製材業ということで、下駄の加工や杉皮を燃料として製紙会社へ納める仕事を始めました。母の名前「富子」から一文字とって「丸富商事」という個人会社です。
その後1964年に生理用品やオムツ等、衛生材料を製造販売する「パール紙工株式会社」を設立しました。父はこの会社を私に継いでほしいと常々言っていましたが、私は高校教師になり柔道部の顧問として全国大会へ行ってみたいという夢があったので、後継者になるつもりはありませんでした。教育実習も卒論も終えた大学4年のクリスマスに、従業員と現場で働いていた母が、機械に右腕を巻き込まれ、肩から10センチ下で切断するという労災が起きました。父は救急病院からリハビリまでの六ヶ月間、母に付きっきりの状態で、否応もなく私はパール紙工に入社することになりました。学生時代から長期の休みは家でアルバイトしていましたから、右も左も分からないということはありませんでしたが、当時パール紙工は衛生材料の中堅会社の100%下請けでした。学生時代からトラックで製品配達、荷卸後スーツに着替えて商談等、取引先の役員・社員の方々とは顔なじみでしたので、呼び名は「ノブちゃん」得意先の富士宮工場の社員という扱いで、仕入れもコントロールされ経営の自由はほとんど無いに等しい状態でした。下請けからの脱皮が私の目標となりました。
結婚して最初に考えたのが「会社が潰れても何とか喰える道を」ということで大型免許を取りました。今は支部の皆の移動手段として生きています。他に何か、と考えたとき社会保険労務士という資格を知り、29歳の春先に通信教育の本を取り寄せました。私の人生の中であれほど集中して勉強したことはありません。毎日会社から帰って一杯飲んで、8時頃に寝て1時2時頃に起きて出社する6時頃までが勉強時時間、日曜日は一日勉強。妻は「子供に見せたかった」といいます。
半年間の勉強で運良く合格して富士宮労務協会を立ち上げ、今は受託事業所三百社くらいの労務管理をやらせてもらっています。でも皆さんも感じられると思うんですが、デスクワークが似合わないんですよね。
他に何か事業を起こしたいと探していたら、パール紙工の生産品目・生理用品に防水のラミネート紙を使っていて、「これは!」と思ったんです。ラミネートとは「違う素材を張り合わせる」という意味なんですが、基材の組み合わせ、ポリエチレンの種類によって様々な物が開発できるんです。基材・樹脂のメーカーが次々と新しいものを開発してくる、それを組み合わせると全く新しいものができる。そんな思惑で1982年「シンコーラミ工業株式会社」を創立しました。以来10年「こんなに上手く行っちゃっていいのかな」と思うくらい順風満帆に伸びていきました。そういう時につまずきって起きるものなんですね。
平成4年の3月に親父の喜寿のお祝いに、グループ全社の周年行事を計画したんですが、その前の年の暮れに、貸しオシボリの会社を経営している男が「親父の放蕩で大きな借金ができてしまった」と泣きついてきました。息子二人が所属していたサッカー少年団の監督で、私も会長を8年務めて、未だに団長として係っているんですが。その時すでに顧問税理士だった黒松と二人で調査に行ってみると、借金は1億数千万円、しかし営業利益は出ているので何とか助けようということになり、シンコーラミ全額出資で資本金6千万円、借入金1億円の「株式会社エヌ・ケー」という会社が誕生し、周年行事にも参加しました。
周年行事の中で「秋に初めての海外旅行、台湾へ行こう」と、社員に海外3泊4日・国内2泊3日を隔年で行うと約束し、大いに盛り上がりました。その台湾旅行の前9月に、シンコーラミの最大の取引先の専務が逃げて、会社が破綻してしまいました。発生した負債が3億6千万円、わずか一年の間に5億2千万円が消えてしまいました。さて、台湾旅行どうしようかと考えたんですが、社員と約束したんだから行こう、と決めて興信所に「木金と休みになるが台湾へ慰安旅行です」電話を受けた興信所が「本当に行くんですか~」馬鹿なことかもしれませんが、以来平成6年に北海道2泊3日、8年に韓国3泊4日、10年に九州2泊3日と続けました。半分以上意地もありましたが、本当に馬鹿な社長だと思います。
平成15年中部銀行が破綻しました。借り入れの3分の1が中部銀行だったので、整理回収機構に回される前に何とかしようと、再建計画を立てて、メインバンクの富士宮信用金庫に全ての負債を肩代わりしてもらいました。再建計画の大きな柱はパール紙工とシンコーラミの合併です。両社合わせてラミネートの売上が7割を超えていたので、シンコーラミを存続会社と決め、父の創業した会社を消滅させました。16年2月に合併作業を終えてやれやれと思った矢先、5月に本社のメイン2工場から出火、新型のラミネート機・加工機を焼失してしまいました。幸いにも創業時に設備した1号機は一部損傷で済みましたが、それでも稼動するのに16日かかりました。1号機が動き始めたときには、嬉しくて一人駐車場で泣きながら仲間にメールしたことを覚えています。復興に要した費用が4億2千万円、保険金が3億2千万円。1億円足りないのですが、新しいラミネート機が稼動するまで8ヶ月間24時間フル操業、社員には無理をさせましたが、結果効率のよさで新規借り入れはせずに済みました。
うちの女房がよく言います。「貴方と一緒になって本当に波乱万丈な人生だ」と「いっぱい泣かされてきた」と。確かにその通りです。振り返って見れば、恥じ入る会社経営をしてきました。それでも何とかもってきた運の強さがあるんですね。
昭和の終わりごろから工場の集約したいと「富士宮異業種工業団地」の会長を務めて、行政と関わってきましたが、なかなか具体化できずにいたところへ、今年2月北山工業団地の最終区画の話が行政からあり、3月購入取得、12月着工で来年6月末竣工引渡しと決まりました。今度の工場は敷地4800坪に2400坪の工場。既存の3工場より広くなります。
以前から還暦で社長引退とまわりに言ってきましたが、この新工場の完成で実行できます。引退まで2年弱のこのタイミングで今回の企画、本当に嬉しく思っています。私も思っているこ