富士宮

富士宮市中小企業大学 第五講報告 宮沢賢治の世界

開講日   11月11日
講師     静岡大学人文学部 山下秀智教授
題目     宮沢賢治の世界

 詩人・童話作家として知られている「宮沢賢治」だが、その作品と壮絶な生き方は、いまだに多くの学者の研究対象となっている。

 岩手県で裕福な家庭に生まれ育った賢治は、農民の貧困の上に生活していることに罪を負い、家業継承を生涯拒否し、父の行き方に羞恥心を感じた。賢治にとって人間関係・家族関係は大きな抑圧であり、そのなかにおける自分の存在は罪でしかなかった。それは賢治の作品の特色である(人間)関係性の不在に現われている。

 高校卒業を控え、進路について父と激しく対立、その頃法華経と出会い、すべての生命の調和する絢爛たる世界に感動し、法華経の求道者として生きることを決意する。

 大正10年、信仰の世界に生きるため上京、国柱会活動に参加しながら童話を書き始める。童話の中に、自己を自然と同化する「まことの世界」を求め、さらに苦悩の原因を生命存在の罪(煩悩)とし、作品の中で焼身により自己の存在消滅を図った。

 妹トシの病気により帰郷、関係性の排除が不可能となり、外界の再構築としての童話から、内界の再構築としての詩へと発展していった。帰郷から病に倒れるまで書き続けられた詩集の「春と修羅」を、詩ではなく「心象スケッチ」と呼んだ。

 農学校の教諭を努めながら、まことの道が行われる理想郷「イートハヴ」を求めたが、農村の貧しい生活と自分の生活との差に負い目を感じ、自分の活動を自己欺瞞とし、農学校を退職する。別宅で自給自足の生活を始め、「羅須(修羅の反対)地人協会」を起し、農業指導を行いながら、農民たちとの生活共同体に入っていったが、現実の農民は求めていた自然性とはかけ離れていた。

 昭和3年、病に倒れ羅須地人協会の活動に終止符が打たれた。この後も個人的な相談を受けたり、仕事に力を尽くしたが、6年再び倒れ、病床にて手帳に「雨ニモマケズ」を記した。

 昭和8年死去する前、父に書き続けた原稿を指差し「あれは私の迷いの跡だから適当に処分してください」と言った。父の浄土真宗に対し法華経の道を選んだが、浄土真宗の教えは賢治の身に染着いていたのでは。「迷い」を知ることで、浄土真宗ではすでに悟りと等しい心境に達していた。

 「イーハトヴ」を夢見、「宇宙意志」を抱いて、その実現のためにいつでも自ら厳しい道を選び、まっすぐに突き進んでいった生涯であった。

<報告:シンコーラミ工業株式会社  代表取締役 河原崎信幸>


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