富士宮支部7月の例会は、「年中夢求~世界一の豚博士が夢見る50年先の未来への挑戦~」ということで、富士農場サービス 代表理事 桑原康氏の報告を聞かせていただきました。
理念は、消費者に喜ばれる豚を作るということで、豚への愛、仕事への情熱がとても感じられるお話でした。
自分自身、豚のおいしさは、飼料や水や飼育環境で決まるものだと思ってましたが、なんと50%は原種で決まるということを知り驚きました。話を聞くまでは、人工授精サービス業についてピンとこなかったのですが、それがいかに重要な事なのか改めて知るとともに、凄い仕事をされている方がこの街にいるんだなと思いました。
これから豚を食べるときには、どのような豚なのか気をつけてみてみます。
豚熱や豚コレラに左右されてしまう経営の御苦労のお話がありましたが、ずっとそういったものとの戦いがあるということで、今のコロナ渦にお話をきいたので、その大変さがより感じられました。また、マイクロ豚の開発による医療貢献もされているということで、幅広い分野にまで御自身の仕事が関わっているといことは本当に凄い事だと実感しました。
今回会場である志ほ川バイパス店さんでは、地下にもネットを引き、サテライト会場も設営しました。
コロナ禍の中、適度に距離を保ちながら多くの方に参加できるような環境づくりも引き続き行っていきます。
報告:Eグループ 渡辺陽介
令和3年3月19日金曜日
今年度最後となる3月度例会は「新会員さん出番ですよ!」と題し、zoomと合わせたハイブリッド例会として、志ほ川バイパス店にて開催されました。
毎年この例会は、新会員さんが自分をさらけ出し、富士宮支部の新たな辞書の1ページとなっていく登龍門でもあります。今回も3名が報告を済ませ、支部の辞書が厚みを増すこととなりました。
1人目は「宮崎ふとん店 宮崎哲也氏」
宮崎氏は「あきらめが悪い私です」と題し、3つのターニングポイントにおいて、自分の人生がどのように変遷してきたのかについての報告でした。
① 数学者としての夢に向かって走り続けた青年時代
② 社会人として基礎を叩き込まれた塾講師時代
③ 婿入りして寝具店・山小屋経営を営む現在
夫々に辿ってきた経験は違えど、本質を極めようとする気持ちから、「メーカーのものを売っているだけでいいのか?」との疑念にとらわれ、自社のオリジナル商品として、オーダーメイドの快眠枕の販売を手掛けることとなります。その姿は、研究者としての土台があったからこそ今に活きているのではないかと思われます。
「小売りからメーカーへ 世界のMIYAZAKIブランドへ」
この10年ビジョンに向けて、同友会活動で得ていく知識・経験が、更なる進化へ向け、活かされていくと思われます。
http://miyazaki-jp.net/
2人目は「株式会社 大一セラム 関澤新一氏」
関澤氏の報告では、少年時代からの生い立ちの中で、支部の大先輩でもあり、父親でもある故・関澤紀一氏から受けた影響が、どのように氏の人生に根付いていったかについて語られました。
愛想がよく、大工になりたかったという少年時代。遊ぶためと嘯くように語られた学生時代の経験。そして学校を卒業し、最初に就職した家族経営の会社では、品質管理を担当。そこでは家族経営の良し悪しについて経験をすることとなります。25歳で取引先へ転職。10年の修行を経て、父親の経営する大一セラムに入社することになります。「自分に厳しく、人にやさしく」「人から受けた恩をきっちり返す」「人のために経営する」父親から学んだ帝王学は、自然と関澤氏の人生に活かされているように思えます。報告の中で「父親とはなんぞや?」という問いかけもありましたが、その思いは言葉ではなく背中を見て継承されて来たのだと感じました。
2017年に事業継承を行い現在に至りますが、先代の思いや生きざまは、新一氏の中で根付き新たな息吹となって、大一セラムの経営に生かされているのだと思います。
関澤氏の言葉・立ち居振る舞いを表現すると「誠実さ」の一言に収斂する報告でありました。
3人目は「ジュエン藤原(有) 藤原 崇氏」
藤原氏は、飲食店・不動産業を生業にしておりますが、ここまで至った経歴は、圧倒的な個性が際立ち、人を引き付ける表現しがたい魅力に富んだ報告だったと思います。
「やんちゃ」であっただろう学生時代から、現在に至る事業のきっかけを作ってくれた母親の話のどれを拾っても、誰しもが経験できるようなものではなく、傍から見れば痛快な出来事も、実際は苦難の連続だったろうと察せられました。
失敗や挫折を乗り越えてきたのは、藤原氏に胆力のなせる業でもあるのでしょうが、その行動力・学ぶ力は大いに参考にしなければいけない部分でもあります。大切なその部分を赤裸々に語ってくれたことに感銘を受けました。
現在は多店舗を展開しておりますが、折しもこのコロナ禍で苦戦を強いられることになりますが、経営努力を更に推し進め、さらなる展開を伺っているということ。
学ぶ力・やり切る胆力。氏の持ち合わせた魅力にあふれた報告となりました。
2月12日、富士宮支部2月例会が会場とオンラインのハイブリッドで行われました。
報告者は、松屋電気商会の稲原研氏が【101年目のプロポーザル~まちのでんきやさんの新たな挑戦~】と題して自身の経営について語っていただきました。
報告内容としては
1.同友会の3つの理念と同友会運動の理解を会員に話された。
2.大手ゼネコン時代の説明から、将来の人生を鑑み、脱サラをして、町の電気屋さんになった理由をお話しになり。電気屋さんと建築設計者としての「2足の草鞋状態」の中で 好きな仕事にかたよっていく苦悩をはなされ。これが自分自身が求めていたものではないと気が付き、100年周年を迎えた家業の電気屋さんの重みを徐々に理解をしていった経緯などをはなされた。
3.家業から企業にする為に自らの知識や技術 経験で地域に貢献をする意気込みをはなされ、新しい経営理念 「すすんで、考える。」と以前とことなり非常にシンプルになった経営理念を発表されていた。また、富士宮で地域にならなくてはならない企業をめざし、安心して暮らせる富士宮を作る為にあたらに従業員をやとい社会貢献され、挑戦するといっておられた。
設計等 非常に自分が好きな仕事をやってしまう事は、以前私が同じ状態におちいっていたので、非常に共感が持てた。
ただやはり人間は必然的に歳をとる。彼は、その事に気が付き、人生とむきあい、不退転の覚悟での脱サラをして、他人の責任にできない、経営者としての重要な覚悟をもって、社員や地域の皆を幸せにしていこうという考えに至る。応援したい気持ちになりました。
また、これから人を雇用すると なかなか同じ目線まで下がる事が難しくなると危惧します。
今回「すすんで、考える。」という経営理念を聞いた時にやはり。山本五十六をおもいだした人もおおかったのではないでしょうか。人との関係の中で舵をきっていくスタイルに変更した感がにじみでていた。
私は年齢は近く少し怖い人だと思っていたので、親近感がわきました。これから経営者として他人の事(社員)を主体に考えていき、非常に大変だとおもいますが、頑張っていただきたい。
(Bグループ 望月城也太)
※会場は広く席を空けて感染対策を取りながら行い、30名を超える会員が集まりました
zoomでの参加も合わせ、多くの会員がバズセッションで熱く議論を交わしました。
富士宮支部10月zoom例会
「社長の仕事」してますか?
~人の2倍働いて、3倍遊ぶをモットーに~
報告者:有限会社 洋和鉄工所 代表取締役 渡辺克洋氏
10月9日(金)、富士宮支部10月zoom例会が開催されました。報告者は、富士宮支部のムードメーカーである(有)洋和鉄工所代表取締役渡辺克洋氏。「社長の仕事してますか ~人の2倍仕事して、3倍遊ぶをモットーに~」と題して語っていただきました。
zoom例会の様子
(有)洋和鉄工所は昭和38年に創業し、大型精密機械部品の金属加工をしています。工場には業界最大級の超大型加工機を13台設置しており、公的な有名な仕事も受注し、大型加工かつ10ミクロンの精度の加工を得意としています。現在の取引先は100社を超え、従業員数は25名です。
渡辺氏は昭和46年10月に渡辺家の長男として生まれました。子供のころは大変貧しく、ご両親は毎日朝から晩まで働きづめで依頼された仕事は決して断らずなんでも対応していました。渡辺氏にとっては工場が遊び場でもあり、モノ作りが好きになり特にプラモデル作りが得意でした。大学卒業後は横浜の会社の就職しましたが、3年ほどしたときに、お父様から「子供たちを大学にいかせるのは本当に大変だった、そろそろ、こっちの仕事をやってみないか」と言われ、父の性格からしてまるで弱音を吐くような言葉に驚きました。その言葉を真剣に考え、父が自分自身の人生を犠牲にするかのように働き続け、その上に成り立ってきたこの会社を引き継ぎたいと思うようになりました。26才で入社し、業界で一番大きな会社にしたいと思い、毎日機械の勉強をしながら日々の仕事をこなしていました。その時は工場には5台の機械があり、1日18時間のフル稼働で、休む暇もなくがむしゃらに働いていました。2000年頃は製造業が最も忙しい時代で、液晶製造ラインの製作の仕事で多忙を極め、機械を毎年1台増やすほどの仕事量でした。35才で専務となり、まだまだがむしゃらに働く自分に対して、仕事そこそこに帰ってしまう従業員に意見を言うようになり、ギスギスとした空気に社員との温度差を感じて悩みました。その様な中でも、仕事が多忙なため、プログラミングで全自動加工できる機械を導入してギスギスしていた社員にも導入と操作方法を説明して、効率よく生産性を上げる体制を作っていきました。
その後、2008年のリーマンショックにより人生最大のピンチを迎えました。あれほどあった仕事量にブレーキがかかり、従業員は掃除の日々、仕事がない苦しみを味わいました。そして父が脳梗塞で倒れ、これをきっかけに社長を交代しました。その時の売り上げは例年の20分の1となり、機械の支払いに苦しみ、弟のようにかわいがっていた若手社員が退社し、自分自身に問題があるのかと思い、そのときから様々なセミナーに参加しました。そのなかで、同友会の例会に誘われ、バズでの討論に感動して即入会を決意しました。そして、あるとき、日本一高いタワーの免振の部品の仕事の依頼がきました。1週間という大変厳しい納期の仕事でしたので、社員に相談したところ、「やりましょう!」という声があがり、社員一同取り組むことになりました。みんなの努力により、5日で納品ができ、取引先も大変喜んでくださり、信頼されるようになり、仕事が増えていきました。しかしながら、社内のギスギスした空気はなくならず、これを緩和しようと思い、給料を手渡しして社員との会話を増やしてみたが、口論になってしまうことがあり、一人また一人退職していってしまいました。従業員数が減れば、社長である自分がさらに遅くまで働くしかなく、目の前の仕事をこなすことが精いっぱいで同友会にも参加することができませんでした。
あるとき、ツーリング先で同業の鉄工所の経営者さんと出会い、意気投合して、その会社は小型品の仕事を得意としていたため、小型品の仕事を依頼し、大型品の仕事は紹介してもらう仲になりました。その会社では笑顔があふれていてお客さんと楽しく会話しており、その社長から、「君は職人としては尊敬するが、社長としてはどうだろう」と指摘されたことをきっかけに、いつも下を向かずに笑顔でいるようにしました。社員との関係性も考え、ひとつの工夫として、何か気づいたときはその社員に直接話をするのではなく、工場長に確認してみて、工場長から話をしてもらうようにしました。そうしていたら、社員に笑顔が戻り、退職する従業員がいなくなり、良い仕事を選べるようになりました。そうして今年から自分自身は機械のオペレーションに立たなくして社長の仕事に邁進するようにしました。社長の仕事のひとつとして、社員が働きやすくなるように、社員を導くように、社員と会社との関係がより良くなるようにしていきました。その一つとして、社員の昇給や賞与の評価は、客観的に自分以外の目が必要だと思い、評価表を導入しました。さらに朝礼で、社員一人に今感じていることを話してもらい、社員たちで仕事のルールを決めるようにしてみました。その結果、来社する取引先の方々から「会社が明るくなりましたね」と言われるようになりました。
これまで金属加工の腕には自信がありましたが、社長としての仕事から逃げていたのかもしれません。しかし、社員と向き合い、社員の生活を第一に考えるような会社を作るようにしたことで、お客様から必要とされる会社になってきたと思います。気持ちとしては2倍働いて3倍遊ぶと思っていますが、0.8倍働いて2倍遊ぶような気持の余裕をもって社長業に取り組んでいます。これから、リニア新幹線の大型品の仕事が控えています。この仕事を社員とともに笑顔を絶やさずやり遂げ、後世に残る会社を作っていきたいと思います。
、という報告でした。職人から経営者となった渡辺氏。そうなるには45分間の報告では時間が足りないほどの苦悩があり努力をしてきたのだと思います。それを柔らかい口調でさらっと笑顔で語る渡辺氏に、経営者としての真の強さとやさしさを感じました。
ちなみに、
笑顔になることで顔の表情筋が刺激を受け、それが脳にフィードバックされると、ポジティブな感情が生まれる。それが、アメリカの心理学者トムキンス氏が発表した「顔面フィードバック仮説」だそうです。脳科学の視点からも、笑顔を浮かべていると脳が楽しいと勘違いしてポジティブな思考になりやすくなります。笑顔は人生をよりよくする最大のコミュニケーション術でもあり、幸福度がアップします。しかも笑顔は周りに伝染し、周りの人も幸せな気持ちになります。
「笑う門には福来る」
皆さんも克洋さんのように笑顔↓を実践してみたらいかがでしょか。